・主なる神さまは、私たち羊を守り、養い、導いてくださる羊飼いのような方。 ・緑豊かな牧草地ではなく、荒野の中只中で草と水を持って養ってくださる。 ・私たちの「たましい」(心)を生き返らせ、絶対に共にいてくださる。 ・鞭と杖を持って導かれる。 ・油を注いで歓迎し、聖霊で満たしてくださる。 ・何度でも主の家(主の臨在)の中に「住まう」(戻る)ことができる。
・1〜2節:主なる神が羊飼い、私はその羊。神に守られなければ生きていけない存在。緑の牧場もいこいのみぎわも、羊飼いが場所を知っている。 ・3節:「たましい」(ネフェシュ)とは心のこと。人の命の根底にある「霊」(ルアッハ)は神を求め続けるが、心は疲れるし、傷を受ける。しかし、主はそれを「生き返らせる」。「義の道」とは、神の愛を受け取る生き方のこと。 ・4節:神が共にいてくださることの証は、聖書のみことば。みことばが羊飼いの杖や鞭のように、羊に行くべき道を教えてくれる。 ・5節:食事を与え、油(聖霊)を注いで力付けてくださる神。 ・6節 主の家に住む(戻る)。何度でも主の臨在の中に戻ることができる幸い。 ・先に召された方々もその信仰に立っていた。人は死後「あの世」に行って永遠にそこで過ごすのではなく、新天新地に復活する(Iテサロニケ4:13-18、黙示録21:1-2)。懐かしい方々と共に主イエスを礼拝するその日を待ち望みつつ、今日を生きよう。
・「私はほめたたえる」という単語で始まる詩篇。ダビデが置かれていた状況(第一サムエル21:10〜22:2)。困難「の中でも」神への感謝を(第一テサロニケ5:18)。 ・周囲に礼拝を促すダビデ(3節)。 ・「主は答えてくださった」という先回りの確信(4節)。 ・「(主を仰ぎ見ると 彼らは)輝いた」。捕囚からの回復を喜ぶ輝き(イザヤ60:5)。 ・長くて暗い洞穴の中でも、「私はほめたたえる」と主への礼拝をささげよう。その時私たちは輝いている。キリストの光が私たちを照らす。
・詩篇42:1〜2 荒野の水無し川で懸命に水を探す切迫した鹿の姿。「いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」(2節b)その後、5節と11節で繰り返される神への賛美の決意。 ・詩篇63:1~3 乾き切った荒野をさまよったダビデ。エルサレムを追い出され、神の臨在から切り離されたように思えるどん底の場所。しかし、そこが「聖所」。63篇もまた神への賛美に導かれて行く。 ・エゼキエル47:1〜12 バビロンに連れて行かれた祭司・預言者。人々がエルサレムから離され、神の臨在もまたエルサレムから去ってしまった悲劇。しかし、彼はバビロンの地で神のことばを聞いた(あなたのいるところこそが「神殿」)。 ・エルサレム回復の預言。神殿に神の栄光が満ちて、生ける水の川が流れる。キリストの再臨で最終的に成就するが、私たち神の民は日々その前味を体験できる。それぞれが神の神殿である私たちから、生ける水の川があふれ、人々を、世界をいやしていく。私たちの内からあふれ流れるほどの聖霊の満たしを求めていこう。
・天の父はどのようなお方か。人間の親子関係のイメージの限界。 ・天の父は絶対的信頼、つまり「自分は絶対に愛されているという確信」を与える。それは神の子どもの成長に必要。 ・ダビデはゴリヤテとの戦いでも(Ⅰサムエル17:45,47)、サウルから逃げている最中も(同26:9、21:10-15、詩篇34:1)、全イスラエルの王となるまでも(Ⅱサムエル5:5)、 最悪の罪をを犯した時も(Ⅱサムエル11:1-12:15、詩篇51:14)、罪の裁きを受けている時ですら(Ⅱサムエル15:14、詩篇63:1)、神を信頼していた。 ・ペテロは「イエスなど知らない」と三度も否定した(マタイ26:57-75)。しかし、彼は激しく泣き、空になった墓に走り、 主と出会って喜び、ガリラヤまで行き、上着のまま湖に飛び込み、そしてイエスと語り合った(ヨハネ20章、21章)。自分の罪深さを知ってなお、イエスへの信頼は揺るがない。 ・ゲツセマネの園で心を注ぎ出して祈った主イエス。福音書記者はここだけ「アバ」とそのまま記す(マルコ14:36)。不安で揺れ動く心をそのまま、天の父への信頼ゆえに祈られた。そして父の父の愛を再確認し、神の御旨である十字架への道に進まれた(詩篇73:21-24、マルコ14:36b、ルカ23:46)。 ・私たちの天の父は、私たちのどんな叫びも受け止めてくださる。絶対に(詩篇62:8)。
・自らの「たましい」(感情)に向けて、主の良くしてくださったことを思い起こせと励ます歌。人のした悪ではなく(1コリ13:5)、主のしてくださった良いことを。 ・3節~5節はすべて救いの喜びに関するもの(咎の赦し、裁きとしての病のいやし、いのちの贖い、恵みとあわれみの冠、良いものでの満たし)。 ・「鷲の翼」は出エジプト(救い)のイメージ(出19:4-5)。主の救いのわざを忘れずに目の前の生活を歩む者は、決してたゆまず、疲れず、力を得て進むことができる(イザヤ40:31)。
・都上りの道中において、「山」とは荒野の山。牧歌的で平和な光景ではなく、山積みの問題の前に立ちすくむ私たち。 ・天地を造られた方が助けてくださるとの確信(詩篇104:1-9, 8:3,4)。 ・「足をよろけさせず」「イスラエルを守られる」。ヤコブの旅が重なる(創世記28:15)。ヤコブと共に歩んで下さった方は私たちとも歩んでくださる。 ・「行くにも帰るにも」。都上りの巡礼の旅の安全。私たちの聖日礼拝も、また礼拝としての日々の生活においても、主は私たちを守られる。感謝。
・祭り(礼拝)のために都へ上る人々が歌った、旅の歌(詩篇 120〜134 篇)。 ・主のなされことのゆえに喜ぶ人々と(1節〜2節)、声をあげて泣く人々と(エズラ3:11〜13)。礼拝の場にはどちらもいてよい。 ・「繁栄が元通りになる」のは「すでにといまだ」(1節、4節)。ネゲブの濁流のようにそれを求める祈り。 ・神の国の「すでにといまだ」の狭間で、みことばの種に自分が養われつつ(エレミヤ29:10〜11)、それを蒔きながら生きる(5節、6節)。
・都上りの歌。祭り(礼拝)のために神殿のある都に上る。主の前に出るための旅(申命記16:16)。私たちにとっての毎週の礼拝もまた同じ。 ・エルサレムへの山道。上るという単語には階段という意味も。エルサレムに到着して、神殿への階段を上っていく。 ・1節:シオンの復興。人の回復だけでなく、神殿、町、国全体の回復だった。紀元前538年のユダヤ人解放、そして神殿の再建は同516年。民はまず神殿の土台を据え、喜びあった(エズラ3:10-11)。にわかには信じられない光景だったが、主がなさった大いなることのゆえに喜んだ(2節、3節)。 ・喜びの場面で泣いていた人たちもいた(エズラ3:11-13)。礼拝の場にはどんな人でも集まれる。 ・4節:「元どおりにしてください。」詩篇126篇は、復興が完了してから振り返った歌ではなく、解放されたけれどもまだ帰還が完了したわけではないなかで歌われた。まだ帰っていない仲間たちがいる。神殿の工事も土台の後16年中断される状況があった(エズラ記)。解放はされたが、まだ困難が続いている。 ・「ネゲブの流れ」:乾季の間に乾涸びたワディ(涸れ川)に雨が降ると、水は地面に吸われずに濁流となる。ネゲブの濁流のように、怒涛のように私たちを助けてくださいという祈り。 ・バビロン捕囚からの解放の「すでにといまだ」と、神の国が来ることの「すでにといまだ」は重なっている。 ・5節、6節:すでにといまだの狭間で、私たちは涙と共に、みことばの種(マルコ4:3-20)に力があることを信じて蒔き続ける。やがてそこには「束を抱え喜び叫びながら」の収穫が来る。 ・バビロン捕囚の時代、エレミヤは神のことば、神の計画を伝えていた(エレミヤ29:11)。みことばの種の一粒一粒を味わい、それを蒔き続けよう。 ・神のみわざが思い起こされ、語り伝えられ、歌い継がれてきた。私たちも週ごとの礼拝で主と出会うために、そして主の再臨を待つアドヴェントとしても、主への賛美を歌いつつ歩もう。