・異邦人クリスチャンが増えてきた中で困惑していたユダヤ人のために書かれた。→異質なものに困惑し、排除しようとするのは私たちも同じ。 ・「アブラハムの子」:ユダヤ人のアイデンティティーである「アブラハム契約」(アブラハムの子孫は多くなって世界の祝福のために仕える。創世記12:1-3、22:18など)の成就として来られたお方(ガラテヤ3:16)。→私たちも信仰によってアブラハムの子だからこそ、周りの人々に仕える役目がある。 ・「ダビデの子」:イスラエル黄金時代のダビデ王の再来のような王が来るという約束「ダビデ契約」(IIサムエル7:12、エゼキエル34:23など)。マタイは王の到来を意識して書いている。この方は羊のためにいのちを捨てる良い牧者としての王(ヨハネ10:11)。 ・「キリスト」:油注がれた方。ここでは「救い主」。旧約聖書にちりばめられている「メシア預言」。イザヤ53:4-6。キリストはその成就として来られたという知らせ!
・この系図は読む者にとって、主イエスが自分たちの間に住まわれたということの証し(ヨハネ1:14)。タマル(3節)は自己の存在を否定された女性。ルツ(5節)は貧しさと社会的な地位の低さに苦労した女性。ダビデは痛恨の罪を明記された(6節)。このような「都合の悪い」私たちの現実のただ中に主イエスは来てくださったということ。 ・この系図はアブラハム契約がどのように成就していったかの証し(創22:18、ガラテヤ:16)。私たちは「地のちりのように、空の星のように」、改め「地の塩として、世界の光として」世界の祝福のために召されている。タマルやルツのような自分の状況に愕然としても、だからこそインマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれる方がお生まれになったことの喜びを深く味わおう(マタイ28:20)。
・タマル:創世記38章。カナン人。ユダの長男の妻だった。夫の死後、正当な結婚の権利を奪われ、存在を無視された。義父との間に子を儲けるという強硬手段に出る。 ・ラハブ:ヨシュア記2章。カナン人。エリコの町の売春婦。イスラエルの偵察隊を匿った。 ・ルツ:モアブ人。主の集会に加わってはならないとまで言われていた民族だが(申命記23:3)、イスラエルの神を信じて信仰告白(ルツ1:16)。 ・バテ・シェバ:第二サムエル記11章。ヒッタイト人ウリヤの妻。ダビデとの不倫を彼女自身がどう捉えていたかは不明だが、王の系図からは抹消されてしまうだろう存在。 ・このような人々がいなければ生まれることができない存在となってくださった主(ピリピ2:6-9)。私たちの間に住まわれた神(ヨハネ1:14)。 ・私たちも信仰によってアブラハムの子孫。この世界の祝福のために用いてくださる。私たち一人ひとりの人生も神の計画のために用いられる。
・①神の計画には長い期間がかかる。 ・②神の計画のために、一人一人の生活・人生が用いられる。 ・③信仰とは、神の計画の実現を待ち望むこと。 ・④神の計画の実現は聖霊により、思いもかけない方法でなされる。 ・アドヴェントはクリスマスを待ち望む期間であると同時に、主の再臨を待つ信仰を新たにする期間。
・18節:「誕生」・・・「系図」と同じことば。創世記を意識。 ・マリアは聖霊によって身ごもり・・・王の誕生の経緯にしては良くない記事のはず。イエスは罪人を招くために来られた(9:13)。 ・19節:「正しい人」・・・旧約聖書の律法にかなう人。申命記22:23-24、24:1。正しさとは一面的なものではない。 ・20〜21節:悩む中にこそ答えが与えられる。「イエス」主は救い。 ・22〜23節:イザヤ7:14の成就。神のことばは必ず実現する。イザヤ40:8 ・インマヌエル・・・神は私たちと共に。マタイ28:20 ・24〜25節:残りの婚約期間を全うしたヨセフとマリア。神のことばを信じてベツレヘムへ。 ・どれほどいわくつきの人物であっても、神の計画があってのことかもしれない。自分自身が問題の只中にあっても、神のことばに信頼してやるべきことをしていく。
・星の出現から神の計画を悟って旅をしてきたマゴス(占星術師)たち。一方、エルサレムでみことばに触れていたユダヤ人たちは、誰もイエスを迎えなかった(ヨハネ1:9~12)。みことばを知っているという自負とおごりだけでは主イエスに会うことが出来ない。 ・みことば以外のところから導かれた博士たちだったが、主イエスと出会って変えられた。同じ道はもう戻らない(12節)。 ・主は思いがけないところにおられる。主を求める人たちも、思いがけないところから訪ねてくる。 ・福音は思いがけないところに、思いがけない方法で広がっていく(コロサイ1:6)。
・1節:ヘロデ大王。紀元前4年に死んでいる。主イエスの誕生はその前であり、紀元前5、6年頃。 ・2節:東方の博士たち(占星術の学者、マゴス)は、ユダヤにメシアが生まれる預言を知っていた(民数記24:17等)。ダニエルら捕囚の民から聞いていたか。 ・3節:みことばを知っていながら、救い主誕生の知らせを喜べない人たち。 ・5節〜6節:ミカ5:2 ・この世界の出来事を通して神に気づいた博士たち。聖書のみことばに確信を得て、キリストに出会うことができた。他方、聖書を日頃から読んでいたはずのヘロデやユダヤ人たちは、救い主が来られたことに気づかなかった、気づこうともしなかった(ヨハネ1:9〜10)。 ・ヘロデ大王の権力と対比される「幼子」。救い主は思いもよらないところにおられる。私たちもこの方の御声を聴き逃さないようにしたい。
・13節〜14節:ヨセフの決断。ベツレヘムにこだわらず、神の導きに従った。 ・16節:ヘロデの暴虐。星が現れた時期から逆算し、ベツレヘムの二歳以下の男の子を虐殺。一般の歴史書に記録されていないのは、ヘロデにとっては容易いことだったからか。「容易い暴虐」が自分にもないか。 ・15節、17節〜18節:これらはベツレヘムの幼児虐殺事件を予見した内容ではないが(ホセア11:1は出エジプトを、エレミヤ31:15はバビロン捕囚を振り返る内容)、預言の成就とは過去に語られた神のことば(表された神のご性質)が変わらずに当てはまるということ。出エジプトもバビロン捕囚も、共に苦難の時期を経て解放・回復が与えられた出来事であり、イエス・キリストの誕生はそれと同じだということ。私たちにとっても。 ・19節〜23節:ナザレで育たれたイエス。中央からは軽蔑された辺境の地。私たちも自分のマイナスのところでこの方と出会える。
・荒野(ミッダバール)は神のことば(ダーバール)を聴くところ。 ・荒野で生きるとは、そこで出会う人々と協力しながら、厳しい世界を生きていくということ。 ・3節:イザヤ40:3「荒野で叫ぶ者の声」。バビロン捕囚が終わり「主なる神が戻って来られる」と知らせる声。ヨハネはまさに、イエス・キリストが来られると知らせる声だった。 ・2節:「悔い改め」とは後悔することではなく、向きを変えること。イザヤ55:6〜7「主に帰れ([ヘ]シューブ)」 ・詩篇80:19「(主が私たちを)元に戻し(シューブ)」。80:14「(神よ)帰って来てください(シューブ)」。悔い改めの恵みとは、主によって私たちの向きが変えられ、主もまた私たちの方を向いてくださるということ。 ・私たちもまた主に出会い直すことができる。悔い改めて、主を求め、主に帰る。その道を整えよう。